瞑想バカ-滝さんのひとりごと

瞑想バカ-滝さんのひとりごとです。東京在住49歳男性瞑想バカが、瞑想歴30年になり思うところあり、自分のような引きこもり系の人へ向けてひとりごとを言うブログです。

わかってるよ病の話し

瞑想バカの滝さんの独りごとブログ
わかっているよ病の話し。

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(インドの列車は、走行中も

ドアが開いているので注意です。)

 

 


私たちには、
心がありますよね。

 

 


心は、マインドmind考えの側面と、
感情の側面があります。

 

 


外国人、インド人は
心を2つの面から話します。

 

 


考え、判断のマインドの立場からと、
感情のハートの立場からです。

 

 


日本では、マインドもハートも心と
一つに訳されていることが

ほどんどでした。

 

 


教えの核心のところで、
マインドとハートがごっちゃで、
心と訳されいるから、

 

 


混乱して、

わからない時期がありました。

 

 


この疑問を越えるのに、学生時代に
2年かかったので、

 

 


ちょっと話題にしてみました。

 

 


山岳ガイドのような、
ちょっとサポートしてくれる人が
いれば、

 

 


このような疑問は、1分で
解消して先に進めます。

 

 


瞑想でも、
山岳ガイドのような、
ガイド役、サポート役は

 

 


本当に大事だと思います。

 

 


これからは、
瞑想のガイドやサポートしてくれる人が
多く現れますようにと、思います。

 

 


さて、ここから
マインドの立場を考えます。

 

 


職場で、学校で、買い物先で、
周りの人から何か言われた事は
ありますよね。

 

 


例は上げませんが、いろいろあります。

 

 


そんなときに思うのが、

 

 


[私に言うの?、
そんなこと、わかってますよ!!]

 

 


[あなたこそ、わかってないんじゃ
ないですか?]

 

 


これを、
[わかってますよ病]
といいます。

 

 


あなたの
マインドが発動します。

 

 


マインドがかかりやすい、
代表的な病気です。

 

 


理不尽な言葉でも、
素直に聞き、
一礼して、詫びて、
正すことが、

 

 


私たちは、本当に
出来ないのです。

 

 


では、
インドの経典の教えに

 

 


この理解をもって戻るとすると、

どうなるかと言いますと、
大体思うのが、

 

 

 

そんなことは、
聖典にわざわざいってもらわなくても、
私たちは皆わかっていますよ。

 

 


です。
いやいや、待って下さい。

 

 


聖典が普通じゃないのは、

ここからです。

 

 


「求めている幸せの根源が、
あなたの真実、

あなたの本来の姿なのです。」

 

 


ということです。

 

 


「自分自身の本当の姿だから、
あなたはいつも幸せでありたいと

思っているのです。

 

 


“幸せ”や“自由”が自分の本当の事実、

現実だからこそ、自然の欲求として

あなたは求めるのです。」

 

 


私たちは生きていて
自分自身の真実を否定されて

生きているから、

 

 


あなたこそ、

わかってないんじゃないですか?と
思ってしまいます。

 

 


私たちは不幸や制限に

耐えられませんよね。

 

 


本来自由な存在であるから、
生きにくさや狭さや小ささを
脱け出したいと思って

生きているのです。

 

 


私たちは、

自分から自然に沸く欲求から、

 

 


自分の本質的な事実を

見つけることができます。

 

 


「…でも私は時々、猛烈な不幸を

感じるのですが
どうしたらいいですか? 」

 

 


「孤独に陥り、悲しみに打ちひしがれ、
悔しさに涙を流して泣いちゃうこと

さえあるんですよ。

 

 


そんな私の存在が、

幸せの本当の根源で、

 

 

 

生きる意味だとは?
 いくら聖典だからって、ちょっと

思えませんよ。
少々強引なのでは? と思います。」

 

 


こんな風に疑問をもち、
聖典が断言することを、

 

 


なぜ私たちは素直に受け入れられない

のでしょうか?

 

 


なぜ、反発するのだろう?

 

 


  聖典が事実であると、
感じられないことが多いのは

なぜでしょうか? 

 

 


なぜ生きることは苦痛で問題だらけと、
思ってしまうのだろうか? 

 

 


それは、
無知と混乱が、
私たちの本来の姿を

隠しているからだと言います。

 

 


落ち着いて考えます。
私たちは、自分自身の本当の姿が

みえていない。と。

 

 


自分の内なる真実をみる機能を、
実は私たちはもっていないのだ。と。

 

 


だから知らないのです。

 

 


事実に無知であるのは、

仕方のないことなのです。

 

 


だから、

私たちが真実を知るためには、

 

 


自分以外の何か“道具”が

必要になるのです。

 

 


まさに自分自身のことであるから、
自分にはみえないのです。

 

 


まるで自分の顔だけは、
直接この目でみることは

できないように。

 

 


だから、自分の目や顔をみるためには、
自分以外の道具が必要になります。

 

 


それが、鏡です。

 

 


鏡という道具を通して、
私たちは自分の顔を

はっきりみることができます。

 

 


同じように、

自分自身の最も内側である
アートマンआत्मन्(人間、生き物の真実)」は、

 

 


自分以外の外の道具が必要になります。
それが、『ヴェーダ聖典)』には、

 

 


何通りも理解出来る例えとかで
表現されて、
わざと、具体的には、
書いていませんね。

 

 


それを理解するには、
やっぱり、山岳ガイドが
必要ですよね。

 

 


瞑想には、瞑想ガイドが
必要ですよね。