瞑想バカ-滝さんのひとりごと

瞑想バカ-滝さんのひとりごとです。東京在住49歳男性瞑想バカが、瞑想歴30年になり思うところあり、自分のような引きこもり系の人へ向けてひとりごとを言うブログです。

瞑想から見た不安

瞑想バカの滝さんのひとりごとブログ

瞑想から見た不安の話

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生活の中で不安に思うことが

たくさんありますよね。

 

 

不安は、私たちの人生を

支配します。

 

 

私たちには、不安、怖いという

感情があります。

 

 

私たちは、怖いとき、

正しい判断ができずに

内側でネガティブに

考えます。

 

 

内側でネガティブなとき、

内側の現れとして、

外側でもネガティブな

行動をしてしまいます。

 

 

ネガティブな想いと行動は、

ネガティブな結果になりがちです。

 

 

前回は、

好き嫌いの感情についてでした。

私たちは内側の感情を内観しています。

 

 

またもう1つ、

私たちの思いを複雑にし、
色眼鏡の主観をつくり、
瞑想を妨げる感情があります。

 


それが、恐れや不安です。

 


私たちは誰もが子供の頃、

無邪気で
まだ社会に無防備だったころに
誰かの言葉や態度に傷つけられた

記憶をもっています。

 


「世界は自分を傷つける。」

 


この思いが、だれの心の奥底にも

あります。

 


だから世界から、
自分を守ろうという態度をとります。

 


受け入れられないことや、
自分を傷つけるような状態を

避けようとします。

 


自分の心の奥に潜む、

 


“傷つけられた子供”は、

いつまでも自分のことを

 


“傷つけられる対象”

としてみています。

 

 

つまり、被害者です。

 


自分だけが守る小さな聖域に
踏み込まれたと感じたら、
恐れをもつと同時に

相手を攻撃する。

 


本当はありのままの世界には

あるはずのない、

 


小さな自分だけのテリトリーを

つくり出します。

 


それはエゴです。

 


その場所を必死になって守るため、

ただ1人、世界を敵に回して

戦おうとしています。

 


そして、それだけではありません。

 


他人によって

“傷つけられる対象”の自分は、

 

 

条件が変わったら、誰かを

“傷つけるかもしれない者”

になりえます。

 


あんなことをしてしまった自分、

こんなことを言ってしまった自分を

後悔します。

 


自分が世界に傷つけられたように、
きっと自分は誰かを傷つけているに

違いないと。

 


後悔や自責の念はこの思いから

湧いてきます。

 


本当は“自分が許さない限り、
世界は自分を傷つけることが

できない”のに。

 


体は傷つけられることもあるだろう。

 


でも心に関しては、私が許さない限り、つまり自分のことを

 

 

“傷つけられる者”

としてみていない限り、

世界は私の心に傷を残すことは

できません。

 


自分自身の核は、

傷つけられることも、
傷つけることもない。

 


本当の自分は、

誰からも傷つけられもしないし、
傷つけもしない。

 


経典がいう

“自分の真実”とは

そういうものです。

 


傷つけない、傷つかない。

ここを理解し、瞑想によって

“真実の自分”

を実感、体験しない限り、

 

 

私は世界に対していつまでも

“悲しき被害者”か“罪深き加害者”に

なってしまいます。

 


瞑想中、目を閉じたとたんに、

世界に対する色眼鏡の主観的な見方と、

 

 

自分に対する歪んだ結論や

偏った態度は顕著になります。

 


自分に対して、世界に対して、

利己的で身勝手な見方をしていたら、

 

 

思いもよらない感情が、

瞑想中に出てきたりすることは

当然のことです。

 

 

(ちっくしょー、ひどすぎると

ぐるぐる繰り返しの

ネガティブな瞑想になったりします。)

 


なぜなら、目を開けて心を外のことに

忙しく働かせている時には、

自分の中心に根を張る苦い思いに

気がつかずにすんでいました。

 


私たちは、一生心の奥底の思いに

気がつかないふりをして、

なんとかやり過ごして

やっていくこともできるでしょう。

 


心の内なる悲鳴に耳を貸さなくても

十分にやり過ごしてしまえる程、

私たちは忙しく生きることが

できるかもしれません。

 


しかし、Yogaや瞑想の目的は、

こういう窮屈な自分を根本から

解放することにあります。

 


心の根もとにある問題から

解放されなければ、私たちが

本当にめざす自由はみえません。

 

 

つまり、

心に向き合う人は、勇気が必要です。

未開の地の探検にいどむような

勇者であります。

 

 

瞑想は、怠け者には出来ないんですが、

何も知らない人は、

瞑想は、座って怠けてると

よく言われるんですよね。